2011年7月19日火曜日

震災体験記

畠山(佐藤寿博ゼミ生)

3月11日14時46分、宮城県石巻市にある実家で被災しました。次の週末には、福島に戻ろうとしていた矢先のことでした。

地震の発生時、実家にいたのは私と母、そして祖父でした。弟は車で友人と遊びに、父は会社に行っていました。かなり大きく揺れ、家具は倒れ、家の外壁などが崩れていました。私の家は海が近くにある為、近くの神社に避難することにしました。この神社は、周辺よりも高台にあり五メートル近く高くなっていると教わっていたところでした。祖父は足が不自由なので私と母だけでは連れて行けず困っていたとき、近所の人がリアカーを引っ張ってくれました。

神社に避難するまでの間、かろうじて電波があったので弟と父、友人にメールをしました。この時には、余震の恐怖が大きく、「津波」ということは漠然としか意識していませんでした。神社には、他にも避難してきた人たちがいました。その後電波がつながらなくなり、余震も怖かったので松の大木の根元で固まっていると、誰かが津波だと叫びました。私が海の方向を見ると、屋根の上から黒い波が迫ってきていました。それからは神社の社に上ったのですが、社の中までも浸水してきました。車も家も流されていき、車の中に取り残されたままの人たちも見ました。早く水が引いて欲しいという思いでいっぱいでした。何とか水が引き始めると、崩れた家の瓦礫で道路が塞がれ身動きが取れない状況でした。小学校が避難場所として指定されていたので移動したかったのですが、余震の恐怖と、辺りが暗くなってきたので翌日に移動しようということになりました。その日はとても寒く、雪まで降ってきました。そこで、瓦礫を集めて焚き火にし、皆で一晩を明かしました。私は膝まで水につかっていたので震えが止まらず、焚火も後から避難してきた人がたくさんいたので近寄れなかったりして、夜が明けるのがとても長く感じました。

夜が明け12日、神社に避難している人の中で、若い人たちで小学校までの避難経路を作ることになりました。私たちは、道路に崩れた屋根を登ったりしながらお年寄りでも通れる道を探したり、瓦礫をよけて道を作り、神社にいる人たちを誘導しながら小学校まで避難しました。

小学校には、よりたくさんの人が避難してきていました。三階建ての校舎の一階が浸水していました。毛布も食料もほとんどありませんでしたが、風や雪を凌げるだけでもありがたいと感じていました。その後、家族全員が再会できました。この時まで安否が全く分からずとても不安な気持ちだったので思わず涙が出るほど安堵しました。小学校での生活は、水も電気も、もちろんガスもありません。トイレなどはプールの水を汲んできて流していました。また、避難所の本部を作る為に一階の土砂をかき出す作業や校庭の瓦礫整理等をして過ごしていました。電気がないので暗くなると就寝で、初めのころは一日チョコレートが四かけというのが一日の食事でした。徐々に支援物資が入ってくるとお昼に炊き出しが始まり、それに参加しておにぎりも握りました。焚火で炊いた米なので焦げくさかったりもしたのですが、支援物資はお菓子がほとんどだったのでお米がとてもありがたく感じていました。

その後、私の家は父の会社の寮に避難することになりました。寮は仙台にあるのですが、車で向かう途中に街の明かりが見えた時は安堵しました。仙台も被災していたのですが、沿岸部が主だったようで、寮のあるところはお店が開いていないくらいで、電気と水道が通っていました。ガスはまだでしたが、電気と水道の有難さを痛感しました。
今回の東日本大震災でもっとも怖かったのは、私は津波だと思います。地震の直後は壁が崩れていたくらいの被害だったのに、津波によって家が流されました。家に帰ってみたとき、あまりに何もないので本当に驚きました。また、福島に戻ってきてからも原発の影響が大きいことを痛感させられています。しかし、今こうして大学に通えて友人たちとともに勉強することができてよかったと日々感じています。

2011.4.25 震災関連講演会(撮影:沼田大輔准教授)