2011年5月30日月曜日

3.11 震災から得たこと

本田 真里奈


~寮にいた私~

3月11日14時46分、携帯の地震速報がなった瞬間、小さな横揺れが徐々に思いもしないような大きな揺れに変わっていきました。身の危険を感じた時にはしっかりと立っていられる状況ではありませんでした。大学の寮内にいた私は先輩や友人のおかげで震えるからだを落ち着かせる事が出来ました。

冷静になり、家族や友人の安否が心配で携帯電話のアドレス帳のすべての番号に電話を掛けました。がその日に繋がった電話は母だけでした。母の声を聞いた瞬間、安心とこれからの不安で涙がとまりませんでした。

数時間経ってテレビを見ると信じられない映像ばかりが目の前に映し出されていました。たくさんの家や車が津波にのみこまれ、津波から逃げようとする人たちやすぐ目の前まで波が迫っているのに動けずにいる車、私の生まれた郡山市では建物が倒壊したり市役所の展望台がつぶれてしまったりととても胸が苦しく悲しい気持ちになりました。友人の家が倒壊した映像がテレビで流れた時、かける言葉が浮かばない無力な自分を悔やみ泣きました。

それから度重なる揺れとチェーンメールによる被災者の恐怖感を煽る情報の拡散、テレビや携帯電話から鳴り響く地震速報に怯え眠れない日々が続きました。水のない生活がこんなにも大変で辛いのかを身に染みて感じました。寮の中では先輩方を中心に協力しあい、水は地震直後に溜めていたものや車を持っている先輩が給水所で汲んできてくれたもので生活し食料は大学で配給された乾パンや各自持っていたものを分け合って過ごしました。本当に先輩や友人のおかげで不安に押しつぶされずに過ごす事が出来ました。また、地震後たくさんの友人からのメールや電話に本当に救われました。自分は一人ではないのだと気付く事が出来ました。






写真は、3月11日16時30分過ぎの福島大学生協食堂店内のテレビモニターの様子です。(福島大学写真部 撮影)


~母との再会~

地震から一週間程度経ってようやく実家のある郡山市に帰ることができ、それと同時に自分が生まれ育った町の被害を目の前にとても胸が苦しくなりました。久しぶりに会う母は地震後一人で避難所生活をしていたせいか少しやつれて見えました。


実家は部屋の中はもちろん台所にあるすべての食器が割れ、ガスも水も使えない状態で生活ができないということでライフラインが復旧し家が生活できる状態になるまでの間、母と二人で17日間の避難所生活がスタートしました。

~避難所生活 ~

避難所につくとたくさんの人たちが一つの部屋に押し込められているようにさえ感じました。布団は隙間なく敷き詰められプライバシーなど全くありませんでした。私はこれを見たとき、『こんな中で生活していく自信がない」と思いました。しかし、避難所の人たちは一人ひとりが狭い思いをしながら寝ているにもかかわらず、寝るスペースがない私のために協力して寝る場所を確保してくださり、「ゆっくり休んでね」とやさしい言葉をかけてくださいました。その時、一瞬でも『こんなところで生活できない』と思った自分が恥ずかしくなりました。


避難所では一日三食の配給がありましたが、一食に一人につきおにぎり一個という日がほとんどでした。テレビを見れば物資がなく一日一食というところもたくさんあり、三食の配給は本当に有り難く思いました。しかし、毎食おかずも温かい飲み物もない中での生活は本当に辛く感じました。一方で、当たり前に食事ができることがどんなに幸せで有り難いことなのかがよくわかりました。

私が避難所に来て3日ほどたった夜中に、隣に寝ていた20代前半くらいの女性がいきなり「息ができない、震えが止まらない」と言い出して病院へ搬送されて行きました。過度のストレスや不安が原因のようで、普段は元気にふるまっていても心の中にたくさんの感情を押し込めていたのだと思うとこの震災で傷ついた心のケアもこれから必要なのだと感じました。

毎日続く余震に怯え、さらには原発事故で見えない放射能の恐怖に私も本当に耐えきれなくなりそうでした。しかし、目の前で無邪気に笑う子どもたちを見ていると大好きな福島の未来を明るく元気にしたい、そして私たちのような若い世代が福島を守っていかなくてはいけないのではという義務さえ感じられました。

避難所での生活は本当に人の優しさに触れることができました。見ず知らずの私たち親子がお風呂に一週間入っていないというと「うちのお風呂に入りにきて」と言ってお風呂を貸してくださる人もいました。みんなが自分の持っている食料を分け合って、お年寄りをいたわり、小さな子供をみんながかわいがって、本当に支えあうことの大切さや思いやることの大切さを知りました。

私は避難所の中で自分にできることを考え行動しようと思い、お年寄りと会話をしたりマッサージをしてあげたり、子供たちとお絵かきや勉強をしたりと小さなことでも自分が人のために何ができるだろうと常に意識していました。 






写真は、2011年3月11日 16時30分過ぎの学生会館内の様子です。(福島大学写真部 2011/3/11 撮影)





~県外へ避難していった友人~

地震発生後、福島第一原子力発電所では1号機に始まり多くの爆発や火災を繰り返し、たくさんの放射能が漏れだしてしまいました。白と水色で塗装された空のようにきれいな外壁は今では中の鉄骨がむき出しになり無残な姿になってしまいました。

大熊町に住んでいた友人は「もう家には帰れないと思う、自分の生まれ育った町を捨てて避難することは本当に辛い」とメールを残して県外へ避難していきました。友人の気持ちを思うと本当に胸が痛くなりました。見えない放射能とこれから先ずっと戦い続けなくてはいけないのだと思いました。


~大好きだったいわきの海~

避難生活を始めて10日位経ってからいわき市に住む兄の友人から物資が届かなくて食べ物がないと連絡をもらい、私は福島市で避難生活をしていた兄と義理姉と共にいわき市へ食料を届けに行きました。いわき市に着くと以前とはまったく違って人も居ない、車も通っていない、店もやっていない、言い方が悪いですが暗く重いこの場所が不気味にさえ感じてしまいました。

津波の大きな被害だけでなく、原発の影響で20km圏外でありながらも限りなく20km近くにあるいわき市は物資の行き届かない孤立した町になっていました。兄の友人は痩せこけて本当に極限まで追い込まれていたのだろうと思いました。

大好きだったいわきの海は変わってしまいました。きれいな海は姿を変え、震災の残酷さを思い知りました。いわきの海でまたたくさんの人たちの声が戻ってくることはあるのだろうかと思うほどでした。いつかこのきれいな海の見える場所で生活してみたいと夢見た日を思い出して本当に辛くて悲しい気持ちになりました。そして、この光景を一生忘れてはいけないと思いました。


写真は、2011年3月13日の沼田准教授の研究室の様子です。(沼田大輔准教授 撮影)



~近所の子供たちと過ごす日々 (1) ~

4月に入ってからは、ようやく実家のライフラインが復旧し家の中も生活できる状態までに片付き、避難所を出ました。避難所でお世話になった人たち一人ひとりに挨拶をしているときにみんなが「ありがとう。元気でね。」と声をかけてくださって中には「寂しくなるね。」と涙を流してくれる人さえいました。避難所生活を通して私自身も人のあたたかさに触れ、支えあうことがどんなに大切かを身にしみて感じ、当たり前のことがどんなに幸せで感謝しなくてはならないということが本当に理解でき、震災前の考えに比べ成長できた気がしました。

実家に戻ると、姉から「娘が外で遊べなくて退屈しているのだけど、私は仕事で忙しいから面倒を見てもらえないかな?避難して引っ越してきた近所の子供たちも一緒にお願いしたいのだけど」と言われました。私は近所に住む姪っ子や近所の子供たちを実家で面倒をみることになりました。避難して引っ越してきた人たちは何も分からない新しい町で子供たちの幼稚園や保育所の受け入れもすぐにできないと言われ、自分たちの職探しに子供を連れていけないという理由もあり面倒を見てほしいと頼まれました。私は子供が大好きなので快く受け入れました。


~近所の子供たちと過ごす日々 (2) ~

だいたい朝の9時ころから夕方それぞれの保護者が迎えに来る6時くらいまでの間家の中でできるお絵かきやぬりえ、折り紙やジブリやディズニーのビデオ観賞など子供たちがやりたいという遊びを一緒にやりました。

最初のうちは夢中になって楽しんでいてもやはりずっと室内で過ごすことに飽きてしまい時には「外で遊びたい!」と泣かれたこともありましたが、困っている私の顔をみて小学1年生になる姪っ子が「外の空気は毒空気なんだよ!たくさん吸ったら病気になっちゃうんだから!」と言って助けてくれる時もありました。まだ6歳の小さな子供が地震や原発の恐怖と一生懸命に向き合おうとする姿を見て私はこの子たちにずっと笑ってこの町で成長してほしいと思いました。

子供たちのいつもまっすぐで元気な姿をこれから先ずっと守っていかなければならないと感じました。しかし、私も幼少のころに大好きだった土遊びや外で思いきり遊ぶことを制限しなければならない現状に不安は消えることはありません。子供たちが屋外で元気に走り回る震災前の光景が戻ってくることを祈るばかりです。























写真は、2011年5月9日の「新入生を迎える会」の様子です。(福島大学写真部 撮影)